元三慈恵大師の生涯

慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)

慈恵大師良源上人(912−985)は、伝教大師最澄上人が比叡山を開かれてから約180年後に現れ、、第18世天台座主として活躍し、日本天台宗中興の祖といわれる。
近江国(滋賀県浅井郡)に生まれ、神童の誉れ高く、12歳で比叡山の理仙上人に師事して得度された。
天台・密教の両教学に通じて論義に秀で、承平7年(937)に興福寺の維摩会(ゆいまえ)で元興寺の義昭を論破し、また応和3年(963)に宮中清涼殿において法相宗の法蔵を論破したことは「応和の宗論」として有名である。法蔵が「仏になれないものもいる」と説くのに対して、慈恵大師は「一切衆生悉皆成仏(みんな仏になることができる)」という天台の立場を主張された。
以後、内供奉(ないぐぶ)十禅師<注1>、天台座主と進んで天元4年(981)には大僧正となった。大僧正補任は奈良時代の行基以来のことである。
康保3年(966)に天台座主に就任し、その直後には比叡山を包む大火が襲ったが、まず第一に延暦寺諸堂の復興に邁進された。
また、「二十六箇条起請」の布告して僧風の刷新に努め、天台教学や法要儀式の整備をはじめ、僧侶育成に力を注ぎ、「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)<注2>を新設して学問を盛んにした。まさに慈恵大師の時代に比叡山は一大発展をなし、後代の日本仏教の基礎となったのである。
平安時代後期は末法思想が流行し、念仏(阿弥陀信仰)が盛んとなったが、慈恵大師は「極楽浄土九品往生義」等を著している。また、門下三千人といわれる中、弟子に「往生要集」の恵心僧都源信や檀那院覚超などがおり、その後の日本浄土教の展開に影響を与えた。
永観3年(985)の正月三日に遷化されたので元三大師と呼ばれ、「慈恵」の諡号(しごう)を賜わったことにより慈恵大師と称される。また、数々の霊験や説話が残されており、降魔大師・魔除大師・角大師・豆大師など霊験ある聖者・元三大師として信仰を集めている。角大師は厄災を降伏させる恐ろしい様相の護符である。また、豆大師は小さな大師の姿が豆粒のように9段33個並べられているお札である。慈恵大師は如意輪観音の化身とも仰がれ、観音様として三十三の童子に姿をかえて農民の田畑を守ったという故事によるもので、我々を救って下さる威力を示したものである。
天台寺院では、慈恵大師尊像や掛軸を祀るところが多く、現代に続く強い信仰は、まさに大師の広大な慈悲の証であろう。

<注1>内供奉十禅師=宮中の内道場に供奉して天皇の護持僧の役割を果たす十人の高僧
<注2>広学豎義=広く仏教の経典や思想を学び、正しい義を立て、論義問答する、いわば僧侶の試験。平成の現代も、五年一会の法華大会において広学豎義は天台宗僧侶の必須の行階となっている。
1998/10/07改訂



四季講堂

比叡山の横川(よかわ)地区にある。
康保4年(967)年以来、四季に「法華経」を論議することを始めたので「四季講堂」といわれる。古くは定心房といい、元三慈恵大師の住房の跡に建立された。古来は弥勒菩薩をご本尊としていたが、現在は元三慈恵大師を本尊にしているので「元三大師堂」「横川の大師さん」として参詣者も多い。
写真は秋の紅葉がとても美しい四季講堂の様子。
元三慈恵大師は四季講堂の落慶法要を終えた後、病床につき弟子たちに比叡山の後事を託し、「まず他人を立て、自らを後にすべし」という訓戒を残された。




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