−弘法大師空海と伝教大師最澄−


1.国宝・弘法大師空海展
平成11年10月28日(木)、高松市にある香川県文化会館で開催されている「国宝・弘法大師空海展」を見学してきた。展覧開始から約3週間で入場者数が5万人を突破したとかで、大盛況である。
この「国宝・弘法大師空海展」は、愛媛県美術館(1999.9/1〜9/26)、香川県文化会館(1999.10/9〜11/3)、高知県立美術館(1999.12/14〜2000.1/26)、徳島郷土文化会館(2000.2/2〜2/27)と四国4県で順次開催される。まさに弘法大師が1200年ぶりに四国への里帰りとなったわけである。
香川会場では、高野山金剛峯寺やその塔頭寺院、京都の東寺(教王護国寺)から、また地元香川からは善通寺、観音寺、根香寺、志度寺、弥谷寺、香西寺、極楽寺、開法寺といった八十八か所霊場寺院などから超一級の貴重な文化財が出展されており、国宝12点、重要文化財55点というスケール内容は、そうそうお目にかかれるものではない。
今回の展覧会は、弘法大師ゆかりの多彩な文化財を、「大師の生涯と学問」「大師の伝えた密教」「大師信仰と日本文化の形成」「中世の人々の祈りと願い」という4部門で構成されている。残念ながら会場内は撮影及び筆記メモ禁止なので、パンフレット写真の紹介でお許しいただきたい。

2.弘法大師はスーパーマン!?
弘法大師空海は日本真言宗の開祖であり、讃岐香川が生んだ偉大なる宗教者であり、事業家で、文化全般にわたる歴史上のスーパーマンと言えよう。書、画、彫刻、文章、文芸評論、建築、築池土木に秀で、さらに庶民の学校「綜芸種智院」を創設した教育者でもあった。
そもそも弘法大師空海と四国とは非常に縁が深い。「お大師さま」と言えば弘法大師である。
弘法大師は四国・香川出身で、讃岐国多度郡屏風ケ浦で佐伯氏の三男として生まれた。弘法大師誕生地については戦前に裁判になったそうで、多度津町の海岸寺と善通寺が争ったとか。現在では、父親の本邸のあった善通寺がご誕生所とされ、海岸寺には産屋があるということで両寺間の問題は解決されている。
四国は山地と海岸が隣りあっている所も多く、古くから修行の地であった。弘法大師は若年期に阿波国大滝岳や伊予国石鎚山の断崖、土佐国室戸岬などの四国地方の海岸や山岳で厳しい修行を積まれている。31歳で出家得度し、空海という法名(僧侶の名)は、室戸岬御蔵洞(みくろどう)で大空と大海に対峙して修業されたことにちなんで付けられたとも言われている。
さらに周囲20qもある日本一大きな溜め池として知られる満濃池の治水事業で改修の指揮を取ったことでも有名である。その際に弘法大師は中の島に護摩壇を設け、燃えさかる炎の中で地鎮作法を厳修し、民衆とともに難工事を1か月という超スピードで完成させたという。
この他にもイナゴの異常発生を護摩修法によって駆除したとか、日照りに際して民衆のために請雨祈祷をすると天地を暗くするほどの激しい雨が降ったなど、霊験談が多く残っている。

3.四国遍路
四国は文字通り徳島、高知、愛媛、香川の4県で、それぞれ旧国名は阿波、土佐、伊予、讃岐という。弘法大師が開かれたという四国八十八か所霊場巡りは現在も盛んで、同行二人(どうぎょうににん)、つまり、自分は弘法大師と一緒に巡礼の修行の旅を続けるわけである。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の分身とされ、宿に着くと杖の先を洗い、床の間に安置し、合掌する。弘法大師とともに歩くことによって、霊場を巡る人々の現世の苦しみを癒すとともに、巡礼の旅は四季折々の風情も味わえるのである。全長約1400kmの四国遍路巡礼を貫くものは弘法大師信仰に他ならない。
四国八十八か所霊場寺院の所在地を地図で確認すると、四国の沿岸部に比較的多いことがわかる。平安時代の「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に「われらが修行せし様は忍辱(にんにく)袈裟をば肩に掛け、また笈(おい)を負い、衣はいつとなく潮垂れて 四国の辺地(へじ)をぞ常に踏む」とあるが、遍路というのは「辺地」が「辺路」となり、やがて「遍路」と定着したそうである。
四国の中心を大日如来の密厳浄土と見立て、東方の阿波を"発心の道場"(23か寺)、南方の土佐を"修行の道場"(16か寺)、西方の伊予を"菩提の道場"(26か寺)、北方の讃岐を"涅槃の道場"(23か寺)といい、お遍路さんは時計と同じ右回りに巡礼し、煩悩を減らし、功徳を生じ、大安楽の境地に到達することを目指すのである。
「死国」という映画はこのルールを反対に回わり、死者を甦らせるというホラー的内容であった。「本来無東西南北」と書かれた遍路笠をかぶり、白装束で巡礼するお遍路さんの姿が死装束を表していることは、意外と知られていないような気がする。現代ではファッション感覚の人もいるだろうが、白装束で四国すなわち「死国」を巡るのは死と再生の儀礼という意味が潜在的にある。
なお、八十八か所霊場に四国別格二十霊場を加えると百八となるので百八煩悩の消滅を祈願することとなり、近年かなり定着しているようである。さらに四国遍路を世界の文化遺産登録という運動も展開されている。

4.弘法大師と伝教大師
「弘法は筆を選ばす」のことわざがあるように、弘法大師は日本の三筆の一人で、名書家として知られる。
その直筆文をよく見ると、自らのサイン(空海)の「海」は、「毎+水」(縦に合字)であることを国宝「弘法大師筆尺牘(せきとく)」つまり第一通「風信帖(ふうしんじょう)」を見て、初めて知った。これは空海から最澄への手紙文3通で、"東嶺金蘭""止観座主"とあるのは伝教大師最澄のことである。
伝教大師が書写された国宝「弘法大師請来目録」でも空海のサイン部分は「毎+水」となっていた(=写真)。
「聾瞽指歸(ろうこしいき)」は弘法大師24歳の時の著作で、仏教、儒教、道教を比較して仏教の優れた点を明らかにしたものである。私は天台宗寺院の僧侶なので、「伝教大師の場合はどうかな」と考えた時、19歳の青年最澄が求道の決意表明を切々と説く伝教大師の「願文」の存在を思い出した。
風信帖(空海筆)弘法大師請来目録(最澄筆)

平安時代に日本仏教の礎を築いた伝教大師最澄と弘法大師空海。ある意味ライバル同志であった伝教大師と弘法大師のご真筆を揃って見ることができたのは大収穫であった。
また、掛軸の弘法大師尊像の出展がトータルで6点あった。右手に五鈷杵を、左手に念珠を持って牀座(しょうざ)に座すお姿が典型で、真如親王様と言われる。そして鈷杵等の密教法具の起源はインドの武器や楽器といわれ、金剛杵(こんごうしょう)、羯磨(かつま)、金剛盤、金剛鈴などがある。仏教に取り入れられると、人々の煩悩を打ち砕き、人々の仏性を喚起するための法具として用いられたのである。掛軸の弘法大師のお姿は真言密教の秘法を修して、人々を救い、鎮護国家を目指す象徴なのであろう。
一方、伝教大師の掛軸は牀座(しょうざ)で定印を結んで座禅止観されているお姿が多い。天台教学では教観二門といって、「法華経」を中心とした教理と、止観に代表される観想行、実践行をいう。この2つを等しく重視されたのが天台仏教であり、従って円(法華経)・密(密教)・禅(達磨禅法)・戒(大乗菩薩戒)の四宗融合の総合仏教を目指し、その仏教をもって国家安泰を実現しようとしたのである。この総合仏教・天台宗から鎌倉仏教の発展へと繋がったわけで、比叡山が日本仏教の母山と言われる所以である。
掛軸の尊影にも、弘法大師、伝教大師それぞれの仏教思想の特徴がよく表れている。
さらに出展の掛軸の中に弘法大師幼少時の「稚児大師」があり、印象的であった。長髪の童子が月輪中の蓮華座の上で合掌されている。
私自身は伝教大師の幼少時の掛軸を見たことはないが、落ち着いた面持ちで懐に釈尊像を持つ伝教大師幼形立像は生源寺(大津市坂本)などで見たことがある。
弘法大師が日本にもたらした真言密教は、大日如来を中心とした諸仏・諸菩薩によって宇宙を形造る壮大な仏教思想であった。人間は密教の世界を自らの修業によって理解すれば即身成仏、つまり人生の悟りが得られるとされた。
真言密教は平安時代の末法浄土思想と結びつき、朝廷・貴族は密教修法による祈祷を盛んに求めた。また、密教法具や金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅に代表される密教美術の隆盛をもたらし、さらに日本古来の神々と調和されて発展していった。
一方、伝教大師も中国で密教を勉強し、帰国後、止観業(顕教=密教以外の仏教専攻)、遮那業(密教専攻)の年分度者(国費養成の僧侶)がそれぞれ1名ずつ(計2名)、国家から公認され、天台法華宗の設立となった(806年)。実は天台宗が日本で初めて密教を備えた宗派教団であったのである。
しかし、弘法大師に比べて不充分であったので、密教の奥義を体得して帰国、活躍していた弘法大師からいろいろな経文を借り、灌頂(かんじょう)という儀式を受けたり、伝教大師の弟子を弘法大師のもとに派遣して修学させていた。伝教大師以後は、慈覚大師円仁、智証大師円珍、五大院安然に受け継がれ、円密一致(法華経・大日経一致説)の天台密教を大成していくこととなる。
真言密教の弘法大師空海も、法華経を中心とした総合仏教の伝教大師最澄も、その立場こそ違えども、仏教によって人々を救い、国の安泰を願うという主眼は同じである。

<おまけ−1>
見学当日は午前10時30分、県営駐車場に車を止め、香川県文化会館の入口へ行ったら、入場制限があり、約20分待ってようやく会場へ入ることができた。平日なのに大混雑、土日はもっとスゴイ人混みになるようだ。一番最初の展示ブースで渋滞を引き起こし、ゆっくりと観賞できないし、なかなか進めなかった(会場の香川県文化会館はあまり広い会場ではなかった)。2階以降の展示会場は比較的ゆったりと見ることができた。

<おまけ−2>
我が妹の好きな洋服ブランドが"KOOKAI"(クーカイ)であるのも、何かの縁かもしれない(笑)。さすが寺の娘??。

<主な名宝一覧>(※図録より抜粋)
1.弘法大師の生涯と学問
重文 弘法大師行状絵詞 東寺 南北朝時代 空海の一代図絵
重文 高野大師行状図絵 高野山地蔵院 鎌倉時代 空海の一代図絵
    弘法大師像(萬日大師) 高野山 室町時代
重文 弘法大師像(談義本尊) 東寺 鎌倉時代
国宝 聾瞽指歸 高野山金剛峯寺 平安時代 空海自筆 空海24歳、最初の著作
国宝 弘法大師筆尺牘三通(風信帖) 東寺 平安時代 空海自筆、空海が最澄に宛てた書状三通
重文 崔子玉座右銘断簡 高野山宝亀院 平安時代 伝最澄筆
国宝 弘法大師請来目録 東寺 平安時代 最澄筆
国宝 真言七祖像 東寺 平安時代 龍猛・不空・恵果の三幅
国宝 金銅密教法具 東寺 唐時代 五鈷鈴・五鈷杵・金剛盤
国宝 金銅錫杖頭 香川・善通寺 唐時代 伝空海請来
国宝 諸尊仏龕 高野山金剛峯寺 唐時代 香木から彫りだした八角筒形の仏龕
2.弘法大師の伝えた密教
重文 大日如来坐像 高野山安養院 平安時代
重文 大日如来坐像(所在大会堂) 高野山金剛峯寺 平安時代
重文 五大虚空蔵菩薩 東寺 唐時代 
重文 天弓愛染明王坐像 高野山金剛峯寺 桃山時代
重文 両界曼荼羅図(敷曼荼羅) 東寺 平安時代 結縁灌頂に用いられた曼荼羅
国宝 五大尊像 東寺 平安時代 不動明王・大威徳明王・降三世明王の三幅
3.弘法大師信仰と日本文化の形成
重文 山水屏風 高野山金剛峯寺 鎌倉時代 伝法灌頂会に用いられた法具としての絵画
重文 弘法大師・丹生高野両明神像(問答講本尊) 高野山金剛峯寺 鎌倉時代 高野山開創時に出会った神々との融合を描く
国宝 善女竜王像 高野山金剛峯寺 平安時代
重文 請雨経曼荼羅図 東寺 鎌倉時代
国宝 金銀字一切経(中尊寺経) 高野山
国宝 一字一仏法華経序品 香川・善通寺 平安時代
国宝 法華経巻第六(色紙経) 高野山金剛峯寺 平安時代
4.中世の人々の祈りと願い
国宝 八大童子立像 高野山金剛峯寺 鎌倉時代 運慶作
重文 孔雀明王立像 高野山金剛峯寺 鎌倉時代 快慶作
重文 四天王立像 高野山金剛峯寺 鎌倉時代 快慶作
重文 地蔵菩薩立像 東寺 平安時代 京都・西寺の像と伝えられる
重文 十一面観音立像 愛媛・太山寺 平安時代
重文 千手観音立像 高知・竹林寺 鎌倉時代
重文 毘沙門天立像 香川・香西寺 平安時代
重文 毘沙門天及び両脇侍吉祥天・善膩師童子立像 高知・雪渓寺 鎌倉時代
重文 石造如意輪観音半跏像 高知・最御崎寺 平安時代
重文 銅像観音菩薩立像 高知・金剛頂寺 奈良時代
重文 金銅旅壇具 高知・金剛頂寺 平安時代
重文 絹本著色不動二童子像 香川・観音寺 室町時代
重文 十一面観音像 香川・志度寺 鎌倉時代
重文 蛮絵袍 東寺 鎌倉時代
重文 舞楽装束類 高野山金剛峯寺 室町時代
重文 宣陽門院庁寄進状 東寺 鎌倉時代 東寺文書
国宝 源義経自筆書状  高野山金剛峯寺 鎌倉時代 高野山文書・宝簡集巻三十三
国宝 法眼尊忍御影堂陀羅尼田寄進状 高野山金剛峯寺 鎌倉時代 高野山文書・続宝簡集巻五
国宝 金剛三昧院屏風絵縮図 高野山金剛峯寺 江戸時代 高野山古図・又続宝簡集巻六十一

1999.11.01版