「エッセイ」
い の ち を 考 え る

■金魚の想い出

子どもの頃の話ですが、地元のお祭りの露店で金魚すくいをして家に持ち帰り、その金魚を水槽に入れてしばらく飼っていました。右に左に泳ぐ金魚を見ながら、ワクワクした想い出があります。父親が、「エサの食べ残しは、毎日取り去ってあげようね。エサや金魚のフンで水は汚れるから、水をろ過したり、時々は水換えも必要なんだよ。また、エサをあまりあげすぎてもダメなんだよ。」と教えてくれました。子どもでしたので、「そっか!水槽の中にトイレはないよね。金魚もやっぱり食べ過ぎるとお腹をこわすんだ!」と純粋に思ったものでした。
そして次の日、父親が「金魚は人と同じで呼吸して生きているんだよ。酸素を吸って二酸化炭素を出すから、緑の藻や泡で新しい空気を水槽の水に供給する必要もあるんだね」と教えてくれました。子ども心ではありますが、水槽という小さな世界で精一杯生きようとする金魚の姿に生きものの営みの不思議さを感じたものでした。
その後、私たちを和ましてくれた金魚も最期の時を迎え、死んでしまって水槽に浮いています。父親と一緒にその死んだ金魚を庭の片隅に懇ろに埋めて、小さな石を目印に置いて一緒に手を合わせました。今までお家の中で一緒に過ごした金魚に「ありがとう」という感謝の気持ちを込めて、家族揃って安らかに眠りますように、亡骸が大地に帰りますようにとお祈りをしたのです。みなさんのお家でも同じようなことをされた経験がある人もいらっしゃるでしょう。
以上は子ども時代の想い出ですが、最近とても気になることは、命の大切さが知らず知らずのうちに軽く扱われてしまっていることです。
金魚の例で聞いた話ですが、ある母親は死んだ金魚を生ゴミとして捨てたというのです。また別の家では、猫に食べさせたというのです。もっと衝撃的な話では、死んだ金魚はトイレに流したというのです。確かに「マンション住まいで庭がないから仕方がないんだ」という住宅事情のせいや、「自治体の清掃局に生ゴミとして出せばいいじゃないか」という意見もあるでしょう。生ゴミ扱いというのは、都市部のマンション住まいではやむを得ないのかもしれませんが、なんともやるせない感じです。また、トイレに流せば、何事もなかったかのように死んだ金魚は目の前からきれいに消えてなくなるから、というのも本来のトイレの使い方からかけ離れた行為で、金魚のことを何とも思っていないと言わざるをえません。
はたしてこれで本当にいいのでしょうか!?何だか背筋がゾッと寒くなりませんか?
子どもたちが親のそういう姿や言動を見たらどう思うでしょうか。金魚との想い出を、いとも簡単にあっさりと捨ててしまうことが、結果として子どもたちを傷つけることになりはしないかと心配です。そして命の大切さを学び教える絶好のチャンスをみすみす失っているように思えてなりません。
金魚の例に限らず、最愛の家族の死、かわいがっていたペットの死、鉢植えの植物、そういった身近な命が消えていく時に、家族や子どもたちとその悲しみや辛さという感情を共有して、命の大切さやかけがえのなさを再確認したいものです。

■限りある命

長崎県学校教育課が平成16年に小学校・中学校の生徒に対して実施した「児童生徒の生と死のイメージに関する意識調査」結果は、大変ショッキングなものです。日本女子大学の中村博志教授も以前に同様の調査をされていますが、ここでは長崎県学校教育課の結果に基づきます。
回答したのは小学4年生が1,196人、小学6年生が1,241人、中学2年生が1,174人の合計3,611人。
「死んだ人が生き返ると思いますか」という質問に対し、「生き返る」と回答した児童生徒が、小学4年生14.7%(182名)、小学6年生13.1%(146名)、中学2年生18.5%(175名)にのぼり、全体では15.4%もいるのです。児童生徒の84.6%は死んだ人は生き返らないと思っている一方で、死んだ人が生き返るという蘇生感を持つ子どもが15.4%もいるなんて、なんと多いことでしょう。結果として中学2年生の割合の方が小学生より多いということにも驚きを禁じ得ません。その理由としては、

というのが目立ちました。大多数の方は、「何をバカなことを言っているんだ」と思われるかもしれません。大人なら人生経験を積み重ねていくうちに自ずと気づき、映画や小説における空想世界の話であり、その世界を通じての感動であると理解していることでしょう。
子どもたちが現実と空想を混同する背景として、一つにはテレビや映画、雑誌やマンガ、ファミコン、インターネットといった様々なメディアの影響が考えられます。特にテレビ、映画やマンガのストーリーやファミコンゲームに代表されるバーチャルリアリティーや擬似的な死の体験が、このアンケート結果ににじみ出ていると言えるでしょう。つまり、メディア上には人の死を軽はずみに受けとめかねない内容が氾濫し、バーチャルな世界と現実世界の境界があいまいな子どもが増えているのです。
また、核家族化やマンションなどの現代住宅事情も反映してか、身近な人の死、飼っている動植物の死に出会った経験が非常に乏しいということも原因の一つでしょう。これと同時に、親や家族が学校の先生がきちんと教えきれていないのか、周囲に分別ある人物がいないということかもしれません。
さらに、「子どもを親戚の葬儀に連れて行かなかった」「飼っていたカブトムシが死んでも代わりをデパートで買ってきた」というように、死をタブー視するあまりに、また過度の配慮によって、子どもたちを生きものの死という現実から遠ざけているのは親自身なのかもしれません。
さて一方で、少数意見の傾向としては、

科学や医療の進歩で命の問題が解決できるかもしれないという期待と、生き変わってほしい、生まれ変わってほしいという願望が伝わってきます。また輪廻転生思想や日本古来からの習俗や各自の宗教的意識を反映した回答が興味深いでしょう。
いずれにしても、これらの児童生徒は自らの直接的経験に基づく観念というよりは、周囲からの様々な情報の影響を受けて人の死を認識しているということは明らかでです。かつては自然の中で思いっきり遊び、学んでしましたし、子どものうちに親しい人の死を経験して傷つき、そして癒され、その事実を受け入れる機会がありました。そして自らも限りある生命の存在であることを自覚してきたのでした。
一人ひとりの命は誰でも等しく限りがあることは、当たり前のことであり、大切な認識です。限りある命であるからこそ、尊厳があり、自他の命を大切にしなければならないのです。私たちは与えられた命を精一杯生きる、周りのいのちを生かす心を育みたいものです。そして、こういった当たり前のことを正しく子どもたちに伝えていくのは大人たちです。

長崎県学校教育課「児童生徒の生と死のイメージに関する意識調査」  2005.01.17報告書
 http://www.pref.nagasaki.jp/edu/gikai/contents/teirei/200501/isikityousa.pdf
日本女子大学・中村博志教授研究室 http://momi.jwu.ac.jp/jidou/nakamura/


本稿は、いのちに関して某HP用原稿を執筆していた時に書いたもので、某HPでは採用に至りませんでした。今となってはいわば副産物のようなものですが、当HPにおいていのちについて考えていただく何かの参考になればと思い、アップしました。20060104版