香 古 寺(Kougoji−temple)

香川県丸亀市土器町西2-883

川古(かわご)の北向地蔵

 行基菩薩開基の寺/弘法大師のご修行地/法然上人の念仏道場 



丸亀市土器町の天台宗香古寺(大岡真祥住職)は山号から「宝珠山延命院香古寺」といい、本尊は地蔵菩薩木像である(=写真)。江戸時代には寺子屋も設けており、地域の子供たちと縁の深い寺院であった。宝珠山延命院香古寺という山号は古来より地蔵菩薩に深い由縁のあった寺院であることの証明である。



〜香古寺の歴史〜

北向地蔵(川古地蔵)


奈良時代の天平年間(729〜)に行基菩薩全国行脚の際の開基で、行基菩薩自らが地蔵菩薩像を彫刻され、本尊としたという。また平安時代の弘仁年間(810〜)に智証大師円珍が大伽藍を再興したと伝えられている。
永正年間(1504〜)の兵火で堂宇をことごとく消失したが、延宝年間(1673〜)に高松藩主・松平頼重公より寺領5石が授与された。
江戸時代の元禄年間(1688〜)に海印和尚が復興したので、中興開基一世としている。そして元禄4年(1691)7月に本堂や客殿等を再建し、8月には8尺(約2.5メートル)もある地蔵菩薩像の開眼供養法要を執行した。この時、正式に宝珠山延命院香古寺として高松の本門寿院(現在の克軍寺)末寺となっている。香古寺のあった当時の土器村は、高松藩の管轄下で、四国探題として丸亀城を観察するため、輪番の僧侶を常駐させ、高松藩の祈願所であるとともに見張所でもあった。享保18年(1733)8月に高松藩主・松平頼重公の命により、一時、上野寛永寺の末寺となったが、以後、高松・克軍寺の末寺、比叡山延暦寺の末寺へと替わった。
江戸時代の往時には、境内地1000坪に、本尊地蔵菩薩座像(全長八尺、行基菩薩作)をはじめ、阿弥陀如来立像(全長二尺二寸)、不動明王座像(全長二尺)、毘沙門天像(一尺七寸五分)、観音菩薩像(八寸)、天台大師木像を奉安し、本堂(四間四面)、観音堂(一間四面)、書院、経蔵、山門等を誇っていたという。また高松藩と関係が深く、青雲院二品尊澄法親王御筆の額、地蔵延命経24巻、仏具一式など、歴代の藩主より寄付されている。
慶応3年(1867)、明治33年(1900)と相次いで火災に見舞われ、昭和11年に庫裡の改修が、最近では先代の栗浄敬住職によって昭和54年(1979)に庫裡の瓦の葺き替え工事が行われた。残念ながら現在では地蔵堂と庫裡と石灯籠を残すのみとなり、往時の伽藍の面影がしのばれる。
地蔵堂にお祀りしている石像は「北向きのお地蔵さん」として土器町川古地区の人々の信仰を集め、現在に至っている。


〜香古地蔵尊の霊験とエピソード〜
香古寺の地蔵菩薩は、非常に霊験あらたかであったという。

<香古寺と行基菩薩> 香古寺の開基は天平年間(729〜)において有名な行基菩薩である。
行基菩薩が讃岐香川に遍歴した際、土器川の西側堤防が数カ所決壊して、川西村から丸亀まで一面の岩石で埋まり、水田は河原となり、村人は手のつけようがなく困り果てていた。この状況を改善するために今の香古寺の場所に住み、道場として地蔵菩薩の修行を示して、人々を集め、説法して勇気づけたのであった。そして自ら先頭に立って昼夜をかまわず水田を直し、治水工事に奔走した。堤防に松を植え、池溝を造り、樋管を通して水利を整え、見事に美田を復活させたのである。村人は益々行基菩薩を拝み、尊敬したのであった。
讃岐の地でも行基菩薩は仏教の伝えた技術・工芸の知識を余すところなく役立てながら様々な事業を完遂し、難民を救うとともに、交通の便も整備し、その活躍はめざましいものであった。
<香古寺と弘法大師> 弘仁年間(810〜)、香古寺のすぐそばに深い池があり、そこに大きな毒蛇がいたという。この毒蛇は村人や家畜に被害を与え、人々を困らせていた。
弘法大師空海は讃岐遍歴の折、香古寺に立ち寄られた。弘法大師自ら白檀の木で地蔵尊を一刀三礼して彫刻・造像された。池の傍らに小さなお堂を建立し、この地蔵尊像を奉安して読経修法を営むと、毒蛇は即座に退散し、村人たちは大いに喜んだという。数年後、その池が枯れ埋もれると、この場所を聾地蔵と呼ぶようになった。
<香古寺と法然上人> 浄土宗の開祖・法然上人が瀬戸内海の塩飽諸島(現在は丸亀市)に遠流されていた時、香古寺を参拝して一心に「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名号を唱えられ、専修念仏の修行をされた。
<香古地蔵は病気平癒に
あらたか・霊験伝その1>
永正年間(1504〜)、兵火に見舞われ、堂宇は悉く消失したが、幸いにもご本尊の地蔵菩薩像は無事であった。「兵火の跡、雨露にさらされていた地蔵菩薩像をみるにしのびない」と村の人々が草庵を結び、"霊験あらたかな地蔵さま"として村人の信仰を集めていた。
さて、元禄年間(1688〜)はじめ、時の高松藩主・松平頼重公は熱病にふせっていた折、この香古寺の地蔵菩薩の霊瑞は松平頼重公の耳に聞き及んだ。時の海印和尚が地蔵菩薩様に病気平癒の祈願をするやいなや、病気も平癒したという。松平頼重公は大いに喜び、この縁によって、頼重公より諸堂再興の命が下された。当時の本尊の地蔵菩薩像は首のみの状態であったので、高松の御旅堂において大仏師法眼治郎によって修理され、この首を像の中に納めた、全長八尺(約2.5メートル)の大地蔵菩薩像が奉安された。また、寺に仏具一式も寄付された。
こうして元禄4年(1691)に諸堂復興と地蔵菩薩像の開眼供養法要が、僧侶・楽人参集のもと、盛大に厳修されたわけである。
<香古地蔵は病気平癒に
あらたか・霊験伝その2>
元禄年間(1688〜)頃、いつの間にか「香古寺の地蔵様は麦粉が大好物である」ということで、ある村人が自分の病気平癒の祈願のために香古寺の地蔵様に麦粉をお供えした。この村人は地蔵様の霊験のお陰で病気も治り、そのお礼として麦粉を寺に奉納した。以来、病気で苦しむ人がお地蔵様に麦粉を奉納して「南無地蔵尊、幸いに我が病気を治して下さるならば、麦粉をおさめてこれに報いた奉らん。急々如律令(きゅうきゅうにょりつれい)」と闘病平癒を祈念すると、必ず霊応があり、病気は全快したという。急々如律令とは厄災をはらい、病気を癒すための呪文である。
また、元禄5年(1692)、水戸第3代藩主徳川綱條公が重い熱病に苦しんでいた。医療、祈祷に手を尽くしても一向に快癒の気配がない。水戸藩家来の者が讃岐の香古地蔵の噂を聞きつけ、いよいよ遙か水戸から讃岐の香古地蔵に祈念すると忽ちに霊験があり、病気が治ったという。綱條公は大いに歓喜され、京都の仏師に香古地蔵の修飾を命じたという。




本尊・地蔵菩薩木像、全長は約1.2メートル
金色の蓮座、光背とともに、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。ご本尊は妙法寺に安置。
 地蔵菩薩について 

お地蔵様は野路の辻などいたる所で見られ、ふくよかな童顔に赤いよだれ掛けという姿は無邪気で本当に親しみを感じずにはいられない仏様である。
地蔵菩薩はお釈迦様の没後から弥勒菩薩が成道するまでの無仏時代の衆生済度を付嘱された菩薩である。胎蔵界曼陀羅地蔵院の主尊は菩薩形で左手には如意宝幢のある蓮華、右手に宝珠(月輪)を持つ(注1)。地蔵菩薩信仰は中国では唐代、日本では平安時代中期からで、無数の分身に変身して衆生済度するから千体地蔵と称し、最も親しまれ、比丘形で左に宝珠、右手に錫杖を持つ姿が一般的になった。
また、鎌倉時代以降、民間信仰に取り入れられて、賽(さい)の河原では童児の救済者として「賽の河原和讃」にまで唱えられ、子育て地蔵・小安地蔵・延命地蔵の名があり、六地蔵(六道能化の主とする)の参詣も多い。現代でも児童のまつりとして毎年8月に行われる地蔵盆の風習が関西を中心に残っている。
地蔵の地は万物の源である大地を意味し、宝を備える命の蔵であるように、無限の慈悲を抱いているのが地蔵菩薩である。そして六道(欲と苦の世界、注2)で悩み苦しむ人々を導き、ともに悩み苦しみながら救いの手を休めないのである。六地蔵は我々が六道の辻を通り抜けねばならないということから寺の門前や道に祀られているのである。

(注1)如意宝珠
宝や衣服飲食を出し、病苦を除くという空想の宝珠で、仏法や仏徳を譬えたり、経典の功徳を象徴的に表す。
(注2)六道
衆生がそれぞれの業によって輪廻し、趣き住むところを六種に分けていう。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道。

2000/11/09改訂
[妙法寺ホームページへ]